忘れ去られた歴史の足跡をたどる旅
兵庫県福崎町は、民俗学の父・柳田國男の生誕地として知られ、妖怪たちが出迎えるユニークな観光地として人気です。また、広大な工業団地を持つ、活気あふれる産業の町でもあります。
そんな福崎町工業団地に、播但線の駅があったことをご存じでしょうか。今からおよそ80年前、溝口駅から福崎町工業団地にかけて支線があったのだそう。
今は無きその駅は戦時中の「弾薬庫」と深い関わりを持つ駅。
終戦から80年を迎える2025年、福崎民話かたりべ研究会代表の鎌谷泉さんと共に、福崎町にひっそりと残る戦争の歴史を訪ねる旅に出ました。
「高橋の弾薬庫」が語る戦時下の記憶
ここに一枚の貴重な図があります。その名も「大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(通称:高橋の弾薬庫)配置図」。
太平洋戦争が始まった昭和16年(1941年)、福崎町高橋にこの大規模な軍事施設が誕生しました。姫路の後方支援基地として、爆薬や航空燃料を貯蔵・補給する重要な役割を担っていたのです。
しかし、昭和19年(1944年)になると戦局が悪化し、本土の本格的空襲が必至となったことから、 「高橋の弾薬庫」の疎開が急務となり、鉱山の廃抗や山中などに爆薬などが移され、1000人を超える人々が動員されて、高橋、西谷、西治で約 20か所の爆薬が急造されました。
しかし、岩盤が多く能率が悪かったため、桜区などでさらに 20~30か所が揺られたとされています。
現在、「高橋の弾薬庫」跡地の大部分は工業団地へと姿を変えましたが、門の跡や防空壕跡など、当時の面影をわずかに残しています。
また、終戦翌年の爆薬庫保管品類の処理中に起こった爆発事故で亡くなったポール中尉やアメリカ兵、日本人作業員の慰霊碑が、今も静かにたたずんでいます。
工業団地に残る、幻のトロッコ線路
駅(ホーム)は残念ながらその跡を確認することはできませんでしたが、当時を知る地域の方の話を聞くと終戦後15年ほどは駅があったのだとか。
驚くべき発見もありました。
北山産業(旧内外家具)の敷地内に、トロッコの線路跡が今も残っているというのです。
鎌谷さんによれば内外家具の創業者は元軍役についており、軍からの払い下げのあと、弾薬の保管に使っていた木箱等から家具店を興したのだとか。
関係者の方々と共にその場所を訪れると、お店の奥へと続くレールが、当時の面影をそのままにひっそりと横たわっていました。
レール幅は580mm、線路は25mm。当時を知る人のお話では、この線路が、今はもうない「幻の駅」へと続いていたそうです。
当時の遺構を目の当たりにした私たちは、興奮とともに、改めて戦争の記憶を深く心に刻みました。
過去の歴史を未来へつなぎ、二度と戦争を繰り返さない。福崎町に残るこれらの遺構は、私たちにそう静かに語りかけているかのようです。








































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